死刑存廃論

 このニュースを聞いて、思わず息を呑んだ…。

 2001.06/08に発生した、大阪教育大付属池田小児童殺傷事件の犯人、宅間守死刑囚(03.08/28一審大阪地裁死刑判決、09/26本人の控訴取り下げで判決確定)の刑がきょう、執行された。一時期死刑存廃論の盛り上がりと政治情勢の不安定さから執行が見合わされていたが、ここ数年はそこそこのペースで執行が行われていたとはいえ、通常判決確定から数年以上を経ての執行が通例の中、今後議論が起こりそうな「早期執行」ということができる。

 自分は死刑存置論者である。刑罰に社会更正の可能性を見出す限り、形式上の無期懲役ないし終身刑というものに社会的価値はないと考える以上、基本的に罪刑法定主義上、極刑として設定されている殺傷的犯罪への対処はその死刑を以ってなすしかないのではないか、と考えている。
(なお脱線するが、刑罰に社会更正の可能性を見出す限り、少年法に対する考えもその延長線上にあって、すなわち人生経験が浅い時期での犯罪に対してはより更正の可能性を積極的に見出すべきという意味で狭義の少年法の意義を尊重するものの、現状は特に手続き的な問題(法規的処理でなく行政的処理に偏ってしまう)が強くあると考えている)


 しかしながら、自分自身で冒頭に「そこそこのペース」とか、「通例」とかの表現をしながら少なからず違和感を覚えていたりもする…殺傷的犯罪を厳しく律している国家が自ら殺人を執行するという根本的矛盾、しかも国際法上「国家としての殺人」を認めている(侵略)戦争を放棄した、世界に誇るべき憲法を有しているわが国であるがゆえに、死刑存廃論はなかなかに結論の出ない微妙なものなのだということを強く感じてしまう。
 一方で、被害者の無念は当然として、遺された人々は癒されることは決してないということにも思いを馳せる必要があることは論を待たない。本件の場合まだ小学生になりたてともいうべき8人もの児童が亡くなり、13人の児童を傷つけるという凄惨なものであったわけだが、それ以上に多くの人を絶望の淵に追いやり、社会に強烈な衝撃を与えたことからして、さらに当人の言動が最近まで基本的に改まなかったと云われている以上、今回の執行そのものを妥当とする社会の空気はそれなりにあると思うが、一方で最期まで遺族に対する贖罪がまったく実現しなかったことでの影響を懸念してしまう。


 きょうも、罪のない子供の生命が失われたニュースが伝わってきている。昔は殺人事件そのものも大事だったような気がするが、最近では確実に毎日のように何らかの殺人事件のニュースがまさに垂れ流されるかのごとく伝わってきている気がするし、それについて特段の感情すら持たなくなりかけているようにも思われる。日本人は生きるということの根源的意味を忘れつつあるのだろうか…そして国家としてもその動きが見られつつあることにも、改めて重大な関心を持つ必要があるように思う。